第二回
*
俺が勤務する赤嶺商事は雑居ビルの三階にオフィスがある。
屋内は電話の声や書類をめくる音、パソコンの作動音などで雑然とした雰囲気に包まれていた。
ぐう、と腹の音が鳴り、思わず入り口近くの掛け時計に視線を向ける。
十一時五十分。
昼休みまで、あと十分だ。
──がたん。
席を立つ音がして、俺は反射的に視線を走らせた。
隣席の原田が立ち上がり、だるそうに伸びをしていた。いかにも仕事にやる気がなさそうな表情だった。
怠惰な猫を思わせる、だらしのない顔。もう少し緊張感というものを持って働けないのだろうか、この男。
思わず毒づきたくもなる。
「あれ、原田さん、どこへ行くんですか」
「外回りだよ、外回り」
原田がにやけた顔で告げた。
──この男が、仕事でこんな嬉しそうな顔をするはずがない。
絶対に嘘だと確信し、苦々しい気持ちが込み上げた。
外回りに行ってくる、という口実のもと、原田がしょっちゅう仕事をサボることを俺は知っている。
一度、上司と相談したほうがいいかもしれないな。
心の中でつぶやいた。
うちの部署には問題のある社員が何人もいた。サボり癖のある原田や、能無しの堂本といった名前が次々と思い浮かぶ。
「じゃあ、行ってくるぜぇ、へへ」
去っていく原田に、俺は憎しみさえ覚えていた。
結局、奴の残した仕事の後始末は、俺の役目なのだ。
後輩に尻拭いばかりさせやがって。
今日は心の中で毒づいてばかりだ。
職場や仕事の内容には不満はないし、上司にも尊敬できる人が何人かはいる。
だが原田のように、どうしようもない先輩がそれ以上にいるのも事実だった。
思わずため息をもらしてしまう。
と──
そのとき、ぽん、と背後から肩をたたかれた。
「原田に何か言われたのか」
振り返ると、声をかけてきたのは部長の御神(みかみ)だった。原田と同世代だが、仕事の能力は雲泥の差だ。
「外回りに行くからって、仕事を押し付けられ……いえ、頼まれたんです」
仕方がないな、あいつは、と部長は小さく肩をすくめた。
それから、
「まあ、君も大変だろうが、頑張れ」
眼鏡の奥で鋭い瞳が閃いている。
鋭い瞳に見据えられ、緊張感が込み上げた。
御神部長は黒川専務の懐刀と呼ばれている出世頭で、将来の重役候補だと社内中の噂だ。
また、黒川専務は美穂の実父でもあるため、俺と御神はプライベートでもそれなりに親交があった。
俺も、この人のことは尊敬している。
「ところで君に話があるんだが、昼食を一緒にどうかな」
御神が不意に切り出した。
「あ、はい、お供させていただきます」
「……仕事の話なんだが」
声を潜めて告げる。
周囲をうかがうような声色だったため、俺はどきりとした。
もしかしたら仕事で何かへまをして、注意されるのだろうか。
俺の顔色を見て取ったのか、部長は苦笑した。
「なに、君にとっても悪くない話さ」
口元に浮かぶ笑みは、にこやかなものだった。
悪い話ではない──
御神の言葉を心中で反すうし、気持ちが高ぶってくる。
もしかしたら、大きな仕事を任せてもらえるのだろうか。
胸の中で期待感が膨らんでいく。
入社して五年。
俺もいつまでもヒラのままではいたくない。
一生平社員のままでもいい、という同期もいるが、俺自身は上昇志向が強かった。
それに何よりも、ある程度の役職について、バリバリ仕事をしたいという気持ちがある。
仕事人間、といわれればそれまでだが。
俺は御神部長と一緒にオフィスを出ると、駅前に向かって歩いた。部長の行きつけの店で昼食がてらに話をすることになっている。
昼休みどきだけあって、大通りは混雑していた。
人込みを掻き分けるようにして、飲食店の立ち並ぶ通りを進んでいく。
と、
(美穂……?)
喫茶店の窓際に、美穂らしき人影が見えた気がした。綺麗な光沢のあるセミロングの髪に、愛くるしい容姿。
他の客とは一線を画する美貌は、どれだけ混雑してもすぐに見分けられる。
「どうした、浅川君」
「あ、いえ、なんでも」
訝しげな部長の様子に、俺は慌てて首を振った。
駅前で買い物するついでに喫茶店に寄ったのだろう。
──このときの俺は特に不審に思うでもなく、ただ呑気に歩いているだけだった。
*
喫茶店は徐々に混雑を増していた。ちょうど昼食どきのため、サラリーマンやOLらしき姿が、あちこちに見える。
(まだかな……)
私はつい、周囲をキョロキョロと見回してしまう。
待ち合わせの時間は十一時半だ。腕時計に視線を落とすとすでに十二時になろうとしていた。
私は席から伸び上がるようにして、店内を見渡す。
これではまるで不審者だった。だが彼を待っている間、気持ちがまったく落ち着かなかった。
私が彼との待ち合わせに指定したのは、駅前にある小さな喫茶店だった。
約束の時間より三十分ほど遅れて、薄暗い店内に三十代なかばくらいの男が現れる。
お世辞にも美男とはいえない下膨れの顔だち。
いかにも中年男、というイメージを与えるビール腹が歩くたびに、ぶるん、ぶるん、と揺れる。
「すみませんね、なかなか仕事から抜け出せなくて」
男は、原田元就(はらだ・もとなり)と名乗った。幹夫さんと同じ部署で働く先輩だという。
「お忙しいところすみません」
私は通り一遍等の挨拶をすませた。
「まあ、私は外回り、なんて言い訳して、ときどきサボるんですけどね」
原田は悪びれもせずに頭をかいた。
いけ好かない男だった。仕事をサボることに罪悪感を覚えないのだろうか。
こういう男がいると、他の社員の負担がそれだけ増す。もしかしたら、幹夫さんも彼の尻拭いをさせられているのかもしれない。
「電話の件ですが──」
私はさっそく本題を切り出した。
「ああ、ご主人の浮気のことね」
どきり、と心臓が鼓動を早める。
「も、もう少し小さな声で話してくれませんか。誰に聞かれるかもわかりませんし」
平然と言った原田に対し、思わず声を昂ぶらせた。
ただでさえ『幹夫さんの浮気』という話で気が立っているのだ。このうえデリカシーのない態度を取られては、気持ちがささくれだってしょうがない。
「すいませんね、へへ。地声が大きいもんで」
原田は相変わらず悪びれない態度だった。
「──実は私が付き合っていた女も、浅川に弄ばれましてね」
原田が無念そうに拳を震わせる。
「私や浅川と同じ課にいる女子社員なんですがね。出世コースをひた走る浅川に甘い言葉をささやかれて、コロッと参ってしまったんですよ。まあ、私がしっかりと彼女を掴まえておかないのが悪かったのかもしれませんが……」
「そんな、夫に限って──」
「最近、浅川の服に女の痕跡のようなものが残ってませんでしたか? 口紅とか、香水の匂いとか」
言われてハッと気づく。
この間、幹夫さんが着ていたワイシャツの襟足には確かに口紅の跡があった。
「満員電車でつけられたって言ってましたけど……」
私は震える声で抗弁した。
原田はにやっと底意地の悪い笑い方をした。
「満員電車……ねえ。ま、言い訳としては定番ですね」
嘘だ、と思いたかった。だが嘘や演技とは思えない迫真の話に、私はつい引き込まれてしまう。
「嘘でこんな話しませんよ」
原田は強い口調で言い切り、まっすぐに私を見つめた。
燃えるような瞳──
そこに宿っているのは、夫への憎悪か、それとも復讐心だろうか。
私は怖くなって、顔を逸らした。
原田の顔をまともに正視できなかった。
「まあ、奥さんに謝ってもらってもしょうがない。むしろ、あんたも被害者だろ」
原田はふう、と深いため息をついた。
「今日はこれだけを話したかった。いきなり言っても心の整理がつかないかもしれないけど……でも、これだけは知ってほしい。あんたの旦那はとんでもないことをしでかしたんだ、ってね」
私は何も言えなかった。
原田の言葉にショックを受けすぎて、言葉が出てこなかった。
頭のなかがグチャグチャに乱れている。
自分がどうすればいいのか分からなかった。
──私は原田とともに喫茶店を出た。
「駅まで送りますよ」
夫以外の男と連れ立って歩くのは、あまり気が進まなかった。
だが原田とはこれからも連絡を取る必要がある。
あまり邪険にするわけにもいかず、わたしはその申し出を受けた。
駅までは歩いて五分程度だ。
喫茶店を出ると、昼を少し過ぎたせいか、人通りは減っていた。ちょうど人気のない路地裏に入ったところで、原田が足を止める。
ゆっくりと振り返った顔には、ゾッとするような妄執が浮かんでいた。
(な、なに……?)
嫌な予感が背筋を走り抜ける。
「奥さん、さっきの話をどう思いました」
「えっ?」
「許せない、と思いませんか」
原田が体を寄せてくる。
タバコの匂いが入り混じった体臭が漂い、私は一歩身を引いた。
「私は……わかりません。いきなり言われたし、まだ心の整理がつかないわ」
「俺たちはお互いにパートナーに裏切られた」
原田がまた一歩近づく。
私は同じように一歩退いた。
どん、と背中が壁に当たった。
狭い路地裏で、ほんの数十センチの間隔をへだてて、私たちは向き合っていた。
互いの呼吸がふれあい、口や頬を撫でる。
「違うわ、私は夫を信じて──」
「被害者同士なんだ! どうです、奥さん。ひとつ──浅川を懲らしめてやりませんか」
突然、原田が覆いかぶさってきた。路地裏の壁に体を押しつけられ、背中に鈍い痛みが走る。
「きゃあっ……ちょっと、何をするんですか」
「アイツに罰を与えてやるんだ」
はあ、はあ、と荒い息を吹きかけられる。
原田への嫌悪感は、恐怖感へと変わった。
男の双眸は異様なまでにぎらつき、まるで狂人そのものだった。
「やめてっ、やめてください!」
上半身をばたつかせ、私は必死でもがいた。
ざらりとした舌の感触を頬に感じた。
原田に顔を舐められている。
「嫌……!」
私は両手を突っ張って、原田を突き放した。
頬にねっとりとした唾液が付着して、気持ちが悪い。
手の甲で何度も頬をこすり、男のつばをこすり落とした。
原田はハアハアとますます息を荒げ、私を見据える。
「復讐してやるんですよ、奥さん」
「復讐ですって」
見当はずれなことを言う原田に、私は眉をひそめた。
「裏切られてつらいのは、奥さんも同じでしょう」
「私は夫を信じています。何度も言わせないでください」
キッと、目の前の男を見据える。
原田はたじろいだように目を泳がせた。
が、すぐに表情を引き締め、私をにらみつけてくる。
「……悪いけど、逃がしませんよ」
「えっ?」
両肩を鷲づかみにされ、体を引き寄せられる。
──あっと思う間もなかった。
「んぐっ!」
ぶちゅ、と汚い音をたて、原田の唇が私の唇に覆いかぶさった。
夫以外の男との、初めてのキスだった。
(ああ……幹夫さん以外の人に、唇を奪われるなんて──)
ショックのあまり、視界一面にいくつもの火花が散った。
目の前にやにさがった男の顔がある。
うっとりと目を閉じ、私の唇を吸っていた。
ぬめぬめとした感触が口の表面を覆っている。
気持ち悪くて仕方がなかった。
(嫌、離してっ……)
顔を動かし、原田から逃れようとする。これ以上、一秒たりともこの卑劣漢と唇を合わせていたくなかった。
だが両頬をがっちりと抑えこまれ、逃げられない。
原田の抑えつけは巧みだった。私が動く方向を予測し、先回りするように体を寄せてくる。
逃げるコースを塞がれてなお、私はもがいた。もがき続けた。
「んっ……んんんっ!」
キスされながら必死で左右に首をひねり、体をよじり、両脚をばたつかせる。
それでも──逃げられない。
夫への罪悪感が、胸の芯までドス黒く染め上げていく。
(ごめんなさい、幹夫さん……!)
ちゅく、ちゅく……
いやらしい唾液の汁音を響かせながら、強く吸いたてられる。唇も舌も、まとめて彼の口中に吸い込まれる。
「ん、はぁぁっ……」
密着している唇同士のわずかな隙間から、私は荒い息を吐き出した。呼吸が詰まるようなキスに目を白黒させる。
男の舌が口中に入り込んできた。
「むむ……」
うねりながら私の舌に巻きつき、唾液を搾りあげる。
ねっとりとした肉塊を含む心地よさが、私の胸をジンとうずかせた。
いつのまにか、男のペースにはまりかけていた。
夫との口づけでは味わったことのない、蕩けるような愉悦。今まで幹夫さんを相手に何百回、何千回と交わしてきたキスが、まるで児戯のように思えた。
ぶちゅ……ちゅうぅぅっ……
ますます強く、唇を吸いつけられる。
もはやほとんど呼吸が困難なほどで、私の鼻腔がひっきりなしにぴくついていた。
深い──本当に深い、濃厚な口づけだった。原田とのディープキスが、私の体の奥に妖しい火種を点していた。
「だ、だめぇっ!」
自分がどうにかなってしまいそうで恐怖感に襲われた。
渾身の力をこめて両腕を突っ張り、原田を突き離す。ようやく永いキスから開放され、私は肩で息をした。
「はあ、はあ、はあ……」
呼吸を整えながら、手の甲で唇を拭う。
口の表面にはまだ男の感触が残っていた。
「どうです、奥さん。このまま俺と──」
勢い込んで私を抱きすくめる原田。
厚い胸板に顔を押し付けられ、体から漂う煙草の香りでむせかえりそうになる。
「だ、だめです。私は、彼を裏切れません」
私はディープキスでもうろうとなる意識を必死で揺り起こし、拒絶の言葉を告げた。
「最初に裏切ったのは浅川のほうですよ」
「それでも私は……彼の妻、ですから」
私は、あくまでも妻としての立場を貫いた。貫きたかった。
「だから、私──あなたを許さない。無理やりキスするなんて、どういうつもりですか」
「旦那に裏切られて悔しくないんですか」
「私は信じない」
まっすぐに相手を見つめ、言い放つ。
私はただ原田を見つめ続けた。
──沈黙が、流れる。
「すみませんでした、奥さん。俺、悔しくて、つい……」
原田が突然、泣き出した。
ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、小学生の子供のように泣きじゃくる。
「どうかしてました。結婚している人に……それも後輩の奥さんに、キスなんて……すみません。すみません……」
ようやく正気に戻った、という感じだった。
「俺で償えるならなんでもします。警察に突き出してもらってもかまいません」
「警察って……」
さすがに私もドキッとした。
第一、警察沙汰にでもなれば私と原田がキスしたことを、夫に知られてしまう。
幹夫さんには、知られたくなかった。
夫に恋人を奪われた(何かの間違いだと信じたいが)怒りで、一時的に我を忘れただけなのだろう。
もしかしたら根は純粋な、いい人なのかもしれない。
「今日のことは忘れます。だから、もう二度とこんなことをしないでください」
私は、男の唾液が残る唇を手の甲でぬぐい、告げた。
「それと、今日のことは誰にも言わないでくださいね。もちろん、夫にも」
と、釘を刺す。
原田は泣きじゃくりながらうなずいた。
「これ、俺の携帯です。何かあったら、かけてください」
原田がメモ用紙に自分の携帯電話の番号を書いて、渡す。
一応受け取り、ポケットにしまった。
ふう、とため息をつく。
「私、帰ります」
これ以上、原田と一緒にいたくなかった。
踵を返し、駅に向かって歩き出す。途中、一度だけ振り返ると、原田はまだ嗚咽していた。
〜第三回に続く
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