第二回



        *


 夜のコンビニは客がまばらだった。
 自動ドアが開き、紺のスーツを着た女性が入ってくる。セミロングに落ち着いた容姿の女性……加賀美涼子だった。
(今日はついてなかったなぁ)
 涼子は憂鬱な気分でため息をつく。
 最近仕事上のミスが多い、と上司に叱られたのだ。
 仕事に集中できていない。
 それは彼女自身も自覚していることだった。一ヶ月前の『あの出来事』以来、会社での仕事に身が入らないときがあるのだ。


 もしあのことが誰かに知られたら……


 そう考えるだけで眠れなくなることもある。
 もちろん後悔はしていない。弟の圭一を救うためにやったことだし、実際、あれで弟は助かったのだから。
 涼子はちらり、と安物の腕時計に目をやった。すでに十時を回ろうとしている。
 が、今日のミスを取り戻すために残業しているため、まだ帰れそうにない。
 コンビニで夜食を買ったら、会社に戻ってもうひと頑張りしなければならないだろう。
(はあ、さっさと寿退社したいわ)
 つい、そんなことを考えてしまう。
 ため息まじりに雑誌棚に目を走らせた。特別読みたいわけでもなかったが、なんとなく習性で女性雑誌を取り、ぱらぱらとめくりだした。
 芸能人のゴシップ記事や美容に関するあれこれ、美味しい店の特集などを斜め読みしながらも、その内容はまるで頭に入ってこなかった。
(……っていっても、そんな相手いないけどさ)
 涼子はもう一度ため息をもらす。
 そつなく仕事をこなすとはいえ、彼女は社内でも目立たない存在だった。
 高い営業成績で出世街道を歩いている同僚たちへの嫉妬や、やっかみ。おまけに恋愛面でも、いい相手もいなければ出会いもなかった。
 涼子には男性との交際経験がない。いつかあたしも彼氏が欲しいな、と願いながら、とうとう二十四歳になってしまった。
(あーあ、あたし、いつになったらバージン卒業できるんだろ)
 ボブカットにした髪をくしゃっとかきまわす。憂鬱にため息をつき、雑誌棚から離れた。
 食品の棚まで行くと、そこに並んでいる弁当のひとつを取り、カゴに入れる。
 就職したばかりのころは、帰宅後に料理をつくっていたのだが、いつのまにか、それも億劫になってしまった。
 今では、ほぼ毎日、コンビニ弁当か外食ですませている。たまに弟の圭一がやってきて、代わりに料理を作っていってくれることはあるが。
 涼子はさらに飲料水のコーナーに行くと、ビールを二本取り出し、カゴに入れた。
(我ながら寂しい生活よね……)
 薄くルージュを引いた唇から、三度目のため息が漏れる。
 レジまで行くと、先客がひとりいたのでその後ろに並んだ。
 生真面目そうな女性店員が品物を精算していた。
 眼鏡をかけた、胸の大きな娘だ。まだ若い。二十歳くらいだろう。ショートカットの清楚な感じの娘で、よく見るとかなりの美人だった。
「あんまり待たせないでよね」
 客が不満を口にする。こちらも二十過ぎくらいだろうか、百キロ近くありそうな肥満の青年でブタのような顔をしていた。
 見るからにデブオタといった容姿だ。
 人を外見で判断するのはよくないが、はっきりいって涼子の嫌いなタイプだった。
「申し訳ございません、お客様……えっ?」
 言いかけて、女性店員が目を丸くする。
「増田さん……! なんで、こんなところに」
「この間のことを思い出したら、いてもたってもいられなくなってさ、君に会いに来たんだ。なにせ、この間は本当に素敵な夜だったから」
「ご、誤解を招くような言い方しないでくださいっ」
 女性店員が柳眉を逆立てた。
 なにやら不穏な空気が、二人の間に漂っていた。
 なんとなく興味を引かれ、涼子は彼らのやり取りを注視する。
「誤解? 誤解じゃないだろ。実際、僕と君はめくるめくような一夜を共にしたわけだし」
「こ、こんな場所で……やめてください」
「赤くなっちゃって。可愛いねぇ」
「他のお客様の迷惑だし……」
 いかがわしい会話をしている。この二人は知り合いなのだろうか。ルックス的にはまるで釣り合わない二人だが……
 やがて肥満気味の客は買い物を終え、立ち去ろうとした。
 と、涼子の肩にぶつかる。
「きゃっ……!」
 ヒールを履いていたせいもあって、涼子はバランスを崩して倒れこんだ。
「気をつけてよ。トロいわね」
 ムッとした顔で文句を言った。相手が嫌いなタイプだったせいもあるが、仕事のミスと長時間の残業でむしゃくしゃしていたのだ。
「…………」
 デブ男は眉をしかめて涼子のほうを向く。
 気弱そうな男だった。
「なによ」
「……あ、いえ」
「文句を言いたげな顔じゃない。ぶつかってきたのはそっちでしょ」
 涼子が必要以上ににらみつけると、一転して男はおびえた様子を見せた。涼子の怒りの前に気合負けしたのだろう。情けない男だ。
「ふん、弱いんだから。典型的なデブオタね」
 涼子は勝気に鼻を鳴らした。
 と、そのとき、
「どうかしましたか、お客様」
 二人のやり取りをトラブルだと思ったのか、男性店員がやってきた。涼子に瓜二つの、童顔の美男子だ。
「圭くん」
 涼子が弟──加賀美圭一に向かってにっこりと微笑む。
「あれ、姉さん。こんなところで何してるのさ?」
「あたしは残業の夜食を買いに来ただけよ」
「残業か。大変だね」
 圭一が同情したような顔でつぶやく。
 と、
「へえ、こんなところで会うなんて奇遇だねぇ」
 肥満男が不意に言った。
 圭一はおや、という顔をした。
「君は確か──」
「この間、真由……じゃなかった、篠原さんと一緒にいたよね」
「増田くん、だったっけ」
 どうやら弟とこの肥満男は知り合いらしい。
「加賀美くん、だよね。こんばんは」
「ひさしぶりだね」
 肥満男──増田がにやりと笑う。
 一方の加賀美圭一はさわやかな笑みを浮かべた。



「僕をデブオタ、ってバカにしたな。あの女──」
 増田はコンビニの自動ドアを出るなり、低い声でつぶやいた。
 イラついていた。
 にらみ合いに近い状態になり、おまけに気圧されてしまったことで、余計に腹が立っていた。
 なんとなく、精神的にあの女に負けた気がしてムシャクシャする。
 さっきぶつかったとき、ちらりと名札が見えた。赤嶺商事・加賀美涼子、と書かれていたのを、増田は目ざとくチェックしている。
「おまけに態度は悪いし」
 だがルックスは悪くなかった。いや、一見地味だが、よく見るとかなりの美人だった。
 かつての増田ならすごすごと引っ込んでいたかもしれない。
 だが今の彼には力がある。
 相手を制する『情報』という名の力が。
「昔とは違うんだよ、昔とは」
 暗い声でうめく。
 僕を馬鹿にする奴は許さない。
 僕を見下す奴は許さない。
 僕の『力』を見くびる奴は絶対に許さない。
 だから──
 その力で思い知らせてやるつもりだった。
 となれば、増田が次に取るべき行動はひとつだけ。
「次のターゲットは決まりだね。僕をバカにした報いを受けさせてやる」


        *


 今日は弟の圭一がマンションに泊まりに来ていた。
 1LDKの部屋で、高級マンションと言うわけではないが、それでも圭一のアパートの部屋よりはだいぶ広い。
 それが気に入ってか、彼は何かにつけて涼子の部屋に泊まりに来る。二十代になっても仲のよい姉弟だった。
 まるで恋人同士みたいね、と同僚に揶揄されたことがあるくらいだ。
(恋人……か。弟が恋人なんて、二十四歳独身OLとしては少し寂しいかな)
 はあ、とため息をついて、圭一に視線を送る。
 童顔で、まだ十代の少年に見える美しい容姿。姉の贔屓目でなくても、十分に美少年だと思う。
 薄着したシャツの合わせ目から圭一の白い肌が見えて、涼子はどきりとした。
 蒸し暑いのだろうか、つーっと汗が一筋肌を伝っている。男とは思えないほど艶かしく白い肌。


 ごくり……


 涼子は半ば無意識に息を飲んだ。
 一瞬、彼が実の弟であることを忘れていた。忘れさせられていた。
 あたしは姉、あの子は弟。
 そんな当たり前の……ごく当たり前の事実を脳内で反芻する。
(あたしは──弟の体に欲情してるんだろうか)
 それは考えただけでゾッとするような思いだった。
 肉親に対する最大の禁忌だ。
 涼子はひどい罪悪感を覚え、あわてて顔を逸らした。
 と、
「俺、今度同じ大学の子と映画を見に行くんだ」
 圭一の嬉しそうな報告に、涼子は再び弟のほうを振り向いた。きらきらとした瞳がまっすぐに彼女を見つめている。
「っ……!」
 一瞬、邪まな思いを見透かされた気がして、息が詰まる。
 一泊置いて呼吸を整え、涼子は冗談めかした言葉を返した。
「へえ、デートなの。もしかしてこの間の女の子と?」
「まあね」
 圭一は照れくさそうにはにかんだ。そんな彼の表情を見て、ほんの少し胸が痛む。
(嫌だな、あたし、嫉妬してる)
 弟に恋人ができようとしているのだから、姉としては喜ぶべきなのかもしれない。
(いくらあたしに彼氏がいないからって……これじゃ、ただの欲求不満ね)
「どうかしたの、姉さん」
「ううん。その、うまくいくと……いいわね」
 涼子は無理やり笑顔を作ってみせた。可愛い弟のためにもここは祝福してあげなければならない。
「あたしは明日も仕事だし、もう寝るわね」
「あ、じゃあ俺も」
「……一緒に寝る?」
 ふとそんな台詞を口にしてみた。
 言った後で、自分でも驚くほどの羞恥心が込み上げる。頬が赤くなっているかもしれない、と思い、弟から顔をそらした。
 相手を正視できなかった。
 しん、と一瞬だけ空気が静まり返る。
 一瞬の後、弟のあっけらかんとした笑い声が響いた。
「何言ってんだよ。いい年して」
「冗談よ」
 涼子が微笑した。本当に冗談だったのか、自分でも自信がない。
「おやすみ、圭くん」
 首を傾け、弟の頬にそっとキスをする。
「圭くんも、キスして」
「姉さん……?」
「やだな、子供のころはよくしてたでしょ。ただの挨拶よ。おやすみのキスじゃない」
「あ、ああ」
 圭一は涼子の頬にチュッと唇を触れた。
「おやすみなさい、圭くん」
「おやすみ、姉さん」


        *


 毎年八月八日になると、隣町で花火大会が行われる。
 普段なら花火大会になど行かない増田だが、今日は珍しく中央神社までやって来ていた。ここで真由と待ち合わせをしているのだ。
 中央神社前にある公園が花火を見るためにはベストスポットで、当然そこが待ち合わせ場所だった。
 すでに通りの両脇にいくつもの露店が出て、にぎわっていた。見回せばあちこちに浴衣姿の女性が見える。
(浴衣ってのもいいよねぇ……真由も浴衣姿で来てくれるかな?)
 豊かなバストを誇る彼女なら、きっと浴衣姿も似合うだろう。
 しっとりと汗に濡れた雪のように白い肌。
 浴衣の合わせ目からのぞく深い胸の谷間。
 妄想しただけで勃起してくる。
「何、あの人」
「一人でニヤニヤして。気持ち悪い」
 知らず知らずのうちに、口元が緩んでいたらしい。二人組の女性が増田を見て、露骨に顔をしかめていた。
「おっとっと」
 増田は慌てて口元を押さえ、ニヤニヤ笑いを隠す。
 と、
「どうしたんです? ボーっとして」
 いつのまにかショートカットの女性が側にやって来ていた。
「真由……」
 増田の顔がぱっと輝き──
 次の瞬間には落胆の表情に変わる。
 浴衣姿かと思って期待したが、彼女はあいにくの私服姿だった。まあ冷静に考えれば、彼との待ち合わせに真由がわざわざ気合を入れて浴衣を着てくるはずもないのだが。
「わざわざこんなところに呼び出して、何の用ですか」
 真由がたずねる。彼女と増田は同学年なのだが、二浪している彼のほうが年上だ。そのためなのか、真由は常に彼に対して敬語を使う。
「加賀美くんって真由の知り合いだったよね」
 増田はさっそく本題を切り出した。
「ええ、アルバイト先が同じですから」
「彼、お姉さんがひとりいるんだけど知ってる?」
「ええ、一度会ったことがあります」
 何を言いたいのか分からない、といった表情で真由が増田を見る。
「彼のお姉さんの情報を集めてほしいんだよね」
 増田が言った。
 ただ脅迫ネタを送ってもらうだけでは駄目だ。より効果的に相手を脅すには、ターゲットについての詳細な情報が不可欠だった。
 ──そのための手駒として真由を使う。
 彼女に、涼子の情報を集めさせる。
 真由は涼子の弟と知り合いだから、情報収集はそれほど難しいことではないだろう。そして、ある程度涼子に対する情報を把握したところで、一気に動き出すつもりだった。
 と、


 どー……ん!
 どー……ん!


 腹の底に響くような音がして、夜空を光が染めた。閃光が漆黒の空を七色に照らす。そして一瞬の後にまた元の暗闇に戻る。
 美しい花火だった。
 恋人同士でなら楽しい光景なのだろうが、真由のほうをちらりと見ると、案の定白けた顔をしていた。


 どうして私があなたなんかと花火を見なくちゃいけないの──


 眼鏡越しに、そう言わんばかりの視線でにらんでくる。
「はあ……」
 増田は思わずため息をついた。
 本当は彼も、人並みにデート気分を味わいたかったのだ。わざわざ花火大会を待ち合わせ場所に指定したのも、そのためだった。
 恋人同士で美しい花火を見上げ、ひとときロマンチックな気分に浸る──
 少なくとも増田は、小中高校生とそんなシチュエーションを味わったことがない。おそらくこれからも味わうことはないだろう。
「用が済んだのなら帰らせてもらいますね。私、約束がありますから」
「約束? もしかして……デート?」
「……そうです」
 真由はかすかに頬を赤らめた。恋する乙女そのままの表情でつぶやく。
「加賀美くんと、ね」
「……ふーん」
 増田は落胆の気持ちを押し殺し、そっけなくうなずいた。
「まあいいや。僕の依頼を忘れないでよ」
「分かっています。あなたがあの写真を持っているかぎり、どうせ逆らえないんでしょ」
 真由は嫌みったらしく告げると、増田に背を向け去っていった。


        *


 帰り道、増田は寂しい気分で神社の階段を降りていた。
「真由は……デートか」
 脳裏に浮かぶのは別れ際の真由の表情だ。
 当たり前のことだが、どれほど脅しても、何度抱いても彼女の心まで得ることはできない。
 それは人妻の香澄や、一度きりしか抱くことができなかった美咲についても同じことだ。
「香澄さんはきっと今頃旦那さんと一緒だろうし、美咲だって──」
 ため息が漏れる。
 どんな力を行使しても、どれほど策略をめぐらせたとしても、心だけは──支配できない。
 と、
「わー、きれい。見てみて、花火があんなに!」
 二人組の少女が階段をあがってくる。
 一人は中学生くらいで、もう一人は高校生だろうか。共に滅多に見られないほどの、美しい容姿をしている。
 一人は、そちらの趣味があれば問答無用で襲い掛かってしまいそうなほど、可憐な少女だった。色素の薄い栗色の髪の毛をシニョンにしている。黒目がちのつぶらな瞳。幼さを感じさせる体のラインはなだらかだ。
 もうひとりは足元まで届くストレートヘアが特徴的な美しい少女。意志の強さを感じさせる黒い瞳は、じっと見ていると引き込まれてしまいそうだった。
「意外と子供っぽいんですのね、お姉さまって」
 中学生くらいの、栗毛の少女が笑う。
 お姉さま、といっているところを見ると二人は姉妹なのだろうか。ただ、その割に二人の容姿は似ていない。
 高校生くらいの、黒髪の少女が可愛らしく頬を膨らませた。
「やだなー。花凛(かりん)ちゃんの感想、ヒネてるよ。もっと子供らしいこと言えばいいのに」
「子ども扱いはやめてください」
「子どもじゃない。あたしより三つも年下」
「精神年齢なら、お姉さまよりずーっと上ですわ」
「失礼ね、あたしだって」
「お子様ですわよ。バージンのくせに」
 栗毛の少女が、幼い顔立ちとは裏腹にどきりとするほど妖艶な表情を浮かべた。
「な、な、な……」
 黒髪の美少女がうろたえた顔を見せる。彼女のほうが数段初心なようだった。これではどちらが年上なのか分からない。
「あははは、おもいっきり照れてますねー。可愛いですわよ、お姉さま」
「花凛ちゃん、そういうこと言うのやめなさい。あなたまだ中学生でしょ」
「ふふん、最近の中学生は進んでいますわ。っていうか、今日び小学生でも──」
「だからやめなさいってば……ん?」
 黒髪の少女が増田に気づいたのか、視線を彼に向ける。
 あらためて見ると、ぞっとするほど美しい少女だった。
 青白い月の光の下で、神秘的な美貌が輝いている。意志の強そうな漆黒の瞳は、すべてを見透かす光を放っていた。
「ふーん、あなたですのね」
 栗毛の少女が黒髪の少女の隣で、楽しそうに笑う。
「あなたの活躍はいつも楽しく拝見していますわ。なかなかの小悪党ぶりですこと」
「えっと……どこかで会ったこと、あるかな?」
 栗毛の少女はくすくすと笑うばかりで答えようとしない。
「この時代において、情報とは力ですわ。あなたには他人を思うがままにできる力がある」
「他人を……思うがままに──」
 増田が少女の言葉を反芻する。
 情報は、使いようによっては大きな武器となる。
 事実、本来なら彼に見向きもしないであろう三人の美女が、次々と自分の前で股を開いたのだから。
 すべては使い方次第──
「その人、花凛ちゃんの知り合い?」
「いえ、なんでもありませんわ、お姉さま。さ、行きましょう」
 黒髪の少女の問いに栗毛の少女は首を振った。二人はそれ以上彼に目もくれず去っていった。
「──結局、誰だったんだ?」
 どうも栗毛の少女は彼を知っているようだ。だが増田のほうには見覚えがまったくない。どこかで会ったのだとしたら、あれほどの美少女が記憶に残らないはずもない。
「誰なんだ、いったい……?」







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