第二回
*
灰色のフレームに彩られたトップページには黄金に輝くピラミッドが描かれている。
その中心部にすえられた巨大な一つ目は、まるでRPGに出てくるモンスターのよう。
増田はそのサイト──『断罪天使』にアクセスし、利用者の体験談を読んでいた。その中には当然のごとく、彼自身の体験談も掲載されている。
片思いの相手だったクラスメートの近藤美咲。
彼女の友人で、真面目な女子大生の篠原真由。
近所に住む貞淑な人妻・池畑香澄。
偶然知り合ったバージンOLの加賀美涼子。
増田はこのサイトを見つけてから立て続けに四人の女性を脅迫し、体を奪ってきた。いずれも、このサイトから送られてくる脅迫ネタを利用してのことだ。
「このサイトって何なんだろう」
以前に感じた疑問が、ふたたび頭をもたげる。
そういえば、インターネットに詳しいオタク仲間に聞いたことがあった。
ネットの世界に伝説的なハッカーがいるのだという。あらゆるセキュリティを突破し、あらゆる情報を自在に引き出す。
たとえ内閣総理大臣の個人情報だろうと盗み出してみせる。そんな凄腕が存在するという──都市伝説の類なのかもしれないが。
管理人の名は『セラフィム』とある。名前からは性別も年齢も、いや人種さえも分からない。
「まあ、いいや。『断罪天使』は僕に力を与えてくれる。高慢な女医だろうと、ドジっ娘看護師だろうと──すべてをねじ伏せる力を」
増田の口元に笑みが浮かんだ。
こうして『断罪天使』とアクセスをしている彼に、かつての小心者の面影はどこにもない。
そこにいるのは一人の脅迫者。
力を得た今、彼に常識的な倫理観など通用しない。
自分の欲望を満たすためだけに行動する。
ただ女を脅し、凌辱することしか頭にない。
──僕は、なんだってできる。世の中のどんな女とだってヤれる──
そんな高慢な思いが、彼を蝕み始めていた。
「次の獲物はこの二人だ」
坂下亜矢香。
相川早苗。
妖艶な色気を全身から発散していたグラマラスな女医と、小柄だがそれに不釣合いな巨乳ナースの姿を思い浮かべた。
「二人まとめてってのも、なかなか乙なもんだよねぇ」
じゅるり、と口元の涎をぬぐう。
ふと、キーボードをたたく手が止まった。
「だけどこのサービスもあと二回しか使えないのか……」
寂寥感が胸をよぎる。
脅迫ネタの無料利用サービスは全部で六回。現在増田は四度このサービスを使っている。
残り回数は、あと二回……
「あとたったの二回」
増田は自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
脅迫ネタがなくなれば、彼は元の無力な大学生に逆戻りだ。もし仮に早苗と亜矢香にそれぞれ一回ずつ使えば、このサービスは終了だった。
また、冴えないデブオタとしての生活が始まる。だから、できるだけ長くこの生活を味わっていたかった。
まだまだヤり足りない。まだまだ犯し足りない。
「……待てよ」
ふと増田の手が止まった。
ターゲットの氏名欄に坂下亜矢香、相川早苗と入力していたのだが、それらの文字をいったん消す。天啓のように閃いたアイデアがあった。
「上手くやれば──なにも二回も脅迫ネタを使う必要はないよねぇ」
デブ男の含み笑いが暗い部屋の中に響き渡った。
*
勤務を終えて携帯電話をチェックすると、メールが入っていた。
「太一くんからだ……」
相川早苗は愛らしい顔をぱっと輝かせる。
他愛のない二、三言のメッセージ。だがそれだけで彼女の心は幸福に満たされる。
恋人の西浦太一(にしうら・たいち)は同い年の会社員だ。
自分で草野球チームを作るほどの野球好きで、典型的なスポーツマンタイプ。大学時代からの交際だから、付き合いはじめてもう三年になる。
喧嘩らしい喧嘩もほとんどしたことがなく、上手く付き合っていた。
このまま交際が続けば、ゆくゆくは結婚も……
そんなふうに思える相手だ。
ただ早苗のほうが西浦よりも数段忙しくて、なかなか彼と会う時間が取れない。仲睦まじい恋人関係の中で、それだけが唯一の不満だった。
早苗は今年が社会人一年生だ。子供のころから憧れていた看護師になったのはいいが、その生活は多忙を極めていた。
好きなアニメも中々見る時間が取れない。
彼女が好きなのは『灼眼のシャララ』。単純明快なアクションとラブコメの取り合わせが気に入っている。
主役を務める声優の音霧咲夜(おとぎり・さくや)は可愛らしくも凛々しい声質で、同性の早苗からしても聞きほれてしまうほどだ。
二年前に放送が始まったこの作品が、咲夜にとっては主役デビューのはずだ。それがいまや、押しも押されもせぬトップ声優である。
「あーあ、早く太一くんと会いたいな……」
早苗はため息まじりに病院を出る。
彼とは毎日のようにメールや電話でやり取りをしているが、やはり直接会えないのは寂しかった。
と、
「久しぶりだね、早苗ちゃん」
病院の前で、一人の青年が太った体を揺らす。
「冬彦くん──」
早苗はハッと顔を上げた。
「ごめんね、今日の診療時間はもう終わったんだけど」
「診察を受けに来たわけじゃないよ」
増田はにやにやと笑っている。
彼女はふと違和感を覚えた。
子供のころの増田はこんな表情をする少年ではなかった。お世辞にも美男子とはいえなかったが、少なくとも純粋で真面目だった。
今の彼はどことなく歪んで見える。邪まな気持ちが顔中からにじみ出ている。
そんなふうに見える。
「あ、あの、あたし──」
彼から不吉な何かを感じ、早苗は後ずさった。栗色のロングヘアを秋風が揺らす。
なんなのだろう。
この不気味なプレッシャーは……
ごくり、と息を飲んで、増田を見つめる。小柄な体が震えた。まるで小動物のように彼女は怯えていた。
「実はこれを見せたくってさ」
ゆっくりとデブ男が近づいてくる。にやついた笑みがますます深まった。彼が差し出したのは一枚の写真だ。
「っ……!」
早苗は思わず息を飲んだ。
一組の男女がラブホテルに入る瞬間をとらえた写真だった。
女のほうには見覚えがない。
明るい亜麻色の髪をセミロングに伸ばしている。すらりとした健康的な四肢とあいまって、整った美貌はどこか中性的な印象を受けた。
そして男のほうは──
「なんで……太一くんが!?」
目の前がぐるぐると回り始めた。増田の声が、妙に遠く聞こえる。
「裏切られたんだよ、君は」
「ち、違う」
「君が一生懸命働いて結婚資金を貯めている間も、彼はほかの女と遊んでたんだねぇ。ふふ、かわいそうに」
「違う!」
早苗は声を張り上げた。呼吸が苦しい。豊かな胸が激しく上下している。
そうだ、きっと捏造写真に違いない。近頃はパソコンを使えば、簡単に画像を合成できるというし……
──ああ、西浦くん、好きっ!
──俺もだ、美緒! もう離さないからな!
と、増田が携帯用のオーディオプレーヤーから音声を流す。明らかに男女の睦言だった。女のほうは聞き覚えがないが、男のほうは間違いなく彼女の恋人のものだった。
「これでもまだ合成だって言える?」
増田が勝ち誇ると、早苗はがっくりと肩を落とした。
「実はね、他にも情報があるんだ」
思わせぶりな口調だった。
一体これ以上、なにがあるというのか。
相手のペースに乗っていると知りつつも、もはや早苗には引き返すことなどできない。
真実を知りたい──
本当に彼は、自分を裏切ったのだろうか。それとも何かやむにやまれぬ事情があって、こんなことになったのだろうか。
何でもいいから真実が知りたい、このままでは頭がどうにかなってしまいそうだ。
「近くに飲み屋があるしさ。続きは、そこでしない?」
増田がへらへらと笑う。
後から考えれば、それはあからさまな誘い文句だった。
だが今の早苗に冷静な判断など下せるはずもない。恋人が自分を裏切った。そんな情報を目の前の男は他にも握っているのか。
「わかった……」
早苗は二つ返事でうなずき、彼の後へとついていく──
*
繁華街の夏町に出ると、二人は一軒の飲み屋に入った。
……早苗の飲みっぷりは凄まじかった。酔わなければ現実を直視できないからだろうか。ともかく信じられないほどのハイペースで飲みまくる。
「あ、あの、早苗ちゃん?」
さすがに増田も心配になって声をかける。
「いくらなんでも飲みすぎじゃないかな」
「うるさーい、ひっく。おら、酒もってこーい!」
トラも、トラ、とんでもない大トラだ。増田は辟易しながらも追加のアルコールを注文する。
「ね、ねえ、早苗ちゃんは経験あるの?」
と、話題を振ってみる。
「あん? 何の経験よ」
早苗は完全に目が据わっている。その迫力に思わず後ずさりながら、増田はなおも尋ねた。
「エッチの」
「…………」
「ねえってば」
「…………」
「なに恥ずかしがってるのさ」
「う、うるさいなー、冬彦くんこそどうなのよ──っていっても、経験なさそうだね」
「失礼だな、ドーテーじゃないよ。経験人数四人だぞ」
増田はムキになって反論した。
「あんたが四人と? うっそだー」
早苗がけらけらと大笑いする。笑い上戸でもあるらしい。
「……そろそろ本題に入ろうか」
増田はさすがに辟易して、早苗に体を摺り寄せた。
「本題?」
「君を裏切った彼氏に罰を与えないとね」
増田がにやりと笑う。
彼が話した全容はこうだった。
西浦の、早苗への裏切りはすでに半年近くにも及ぶこと。
西浦と相手の女性──沢木美緒(さわき・みお)は高校時代に付き合っていたこと。一度は別れたが、半年前の同窓会で再会し、ふたたびお互いの気持ちが燃え上がったこと。
彼の中ではすでに美緒が一番で、早苗は二番手に落ちていること。
「そんな……太一くんが……そんな!」
早苗の顔がみるみる青ざめていく。すっかり酔いも冷めたようだ。
「で、どうなの、早苗ちゃん」
増田がブタのような顔を近づけた。
「彼氏に復讐するためにさ、僕と寝てみない?」
「あなた……と?」
とろん、とした瞳が増田を見つめる。
「もちろん復讐だけが目的じゃない。裏切られたといっても、この彼のことがまだ好きなんだろ、早苗ちゃんは」
「それは……まあ……」
「だけど彼の心は完全に、この美緒って女に向いてる。今のままじゃ太刀打ちできないよ。取り戻すためには、彼の、君への思いを燃え上がらせるしかない」
「…………」
「僕に抱かれれば、きっと彼は嫉妬する。嫉妬ってのは、この世で一番強烈な感情さ。まして僕みたいなデブオタに恋人を奪われたとなれば、彼氏は全力で取り戻そうとするだろうね」
「…………」
「どう? 早苗ちゃん。逆転のチャンスはそれしかないと思うんだけど、な」
増田はそう言った後で、わざとらしく付け足す。
「もちろん、このまま彼の幸せを願って、おとなしく身を引くっていうなら話は別だけど」
「──身を引くなんて」
早苗の唇が震えた。
「絶対、いや!」
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