第一回



        *



 真崎花凛(まさき・かりん)に直接接触できる人間は、きわめて少ない。
 彼女に会うためには物理的なものや、電子的なものなど何重ものセキュリティを突破し、なおかつ、さらに堅固なセキュリティ──彼女の心の壁──を乗り越えなければならない。
 こん。
 こんこん……
 こんこんこんこんこんっ。
 一回、二回、少し間を置いてさらに五回のノックが響く。
 それは佐伯姫菜(さえき・ひめな)と花凛との間の合図だった。重度の引きこもりである彼女は滅多なことでは自室から出てこないし、信頼する人間が相手でなければ、そもそも扉を開くことさえしない。
 厳重に施錠された扉が開き、栗色の髪の少女が顔を出す。
「こんにちは、花凛ちゃん」
「いらっしゃいませ、お姉さま」
 シニョンにした髪形がよく似合う可憐な少女だ。花凛は嬉しそうに笑い、姫菜を自室に招き入れてくれた。
「この間はありがと、花凛ちゃん」
「はい?」
「犯人のデータ集めに協力してくれたでしょ。おかげで助かったよ」
 数週間前に逮捕された、連続レイプ魔──通称『陵辱ピエロ』。数十件の犯行を重ねていた男を捕まえる決め手となったのは、彼のDNA鑑定データ。
 姫菜が依頼し、花凛が集めたデータだ。
「まあ、お姉さまのお役に立てて何よりですわ。別に犯罪捜査には興味ありませんけど」
 花凛が無邪気に笑った。
 実際、彼女は正義感などで姫菜に協力してくれたわけではないのだろう。花凛にとっては姫菜が頼んだから協力した、というだけの話だ。姫菜と違って、花凛は犯罪を憎む心など持ち合わせていない。
 彼女にあるのは、純粋な好奇心だけだ。子供そのままの無邪気な好奇心。
「……それでも、あなたは事件を解決するための、力のひとつになってくれた。」
 足元まである黒いストレートヘアをかきあげ、姫菜が言った。
「感謝してる」
 たとえ心根がどうあれ、事件解決に一役買ってくれた。そして事件解決によって救われた人間が何人もいる。
 それだけで、花凛に感謝する理由としては十分だ。
「うふふ、お姉さまの笑顔が見れれば、私はそれで」
「感謝ついでに、たまにはどう?」
 姫菜が一枚のチケットを取り出した。
「あら、なんですの、それ?」
「咲夜ちゃんのコンサートチケットだよ」
 姫菜が言った。
 音霧咲夜(おとぎり・さくや)は、今をときめくアイドル声優だ。
 声優業だけでなく、すでにCDを三枚リリースし、そのすべてでミリオンヒットを飛ばしている。さらに最近では、アニメヒロインそのままの美貌を活かして、実写ドラマにまで進出している。
『声優』という職業名で一くくりにできないほど、その活躍の幅は広い。
 咲夜と姫菜とはとある事件で知り合い、それ以来友人として付き合っていた。彼女にとって、数少ない親友──
「花凛ちゃんも行く? 頼めば、もう一枚くらいチケットくれるみたいだけど」
「遠慮しますわ。私は重度の引きこもりですから、この部屋から出るだけでも苦痛ですの」
 花凛がにっこりと笑う。
 姫菜はぼそり、とつぶやいた。
「にっこり笑って言うことでもないと思うけど……」



        *



 薄汚いアパートの一室では、三人の青年による萌え談義が真っ盛りだった。
 いずれも明倫館(めいりんかん)大学に通う学生で、言ってみれば同好の士だ。
 今日は三人で、アイドル声優『音霧咲夜(おとぎり・さくや)』のコンサート映像を収めたビデオを見ていた。
 会場は増田のアパート。八畳一間、ユニットバス付きの小さなアパートの一室だ。
「咲夜ちゃんのコンサート、来月にもあるんだってさ」
 増田とは対照的に、枯れ木のように痩せた星野が話す。
「この間のコンサートじゃ増田氏が熱射病で倒れてしまいましたからねぇ」
 小学生並みに背の低い三井が語る。
「面目ない……」
 増田は素直に謝った。
「音霧咲夜かぁ。『暑宮ハルヒ』のくるみ役で絶好調なんだよねぇ」
「『三人そろってプリッキュラ』で演じてる、ほむらちゃんの声も可愛いよね」
「僕は『灼眼のシャララ』で、シャララの凛とした声が好きだなぁ」
「どれも萌えるよねぇ」
「はぁ……」
 最後は三人そろって感嘆のため息。しばらくの間、彼らは音霧咲夜についての萌え談義に花を咲かせる。
 テレビの画面上では咲夜が可愛く、美しく熱唱していた。
 夏の向日葵を連想させる、明るい美少女だった。黒目がちの大きな瞳がきらきらと輝いている。赤く染めた髪は綺麗なストレートロングだ。


「さ・く・や・ちゃ〜ん!」


 何千人というファンが声をからして叫んでいる。野太い男の声援。声にならない無数の声がこだまする。
 ステージの上の咲夜はどこまでも可憐だった。スタイルもルックスも抜群。現実の女性というよりも、アニメヒロインのフィギュアがそのままリアルの世界に現れたような……そんな雰囲気を漂わせている。
(そうだ、『断罪天使』に頼めば、咲夜ちゃんの脅迫ネタも手に入るかな)
 増田はふとそんなことを考える。
 アニメのヒロインそのままの──まるで、オタクの夢を具現化したような美少女。


 もしも彼女をモノにできたら……


(脅迫ネタを使えばできるんだろうか?)
 正体不明のホームページ『断罪天使』から増田が提供を受けている『脅迫ネタ利用サービス』の回数制限は全部で六回。彼は今までに、五回のサービスを受けていた。


 気の強い大学の同級生、近藤美咲を──
 同じ大学で、美咲の親友でもある篠原真由を──
 近隣に住む人妻の池畑香澄を──
 会社の金を横領していた、地味なOLの加賀美涼子を──
 そして大学病院に勤務する幼なじみのナース・相川早苗と、同じ病院の女医である坂下亜矢香を──


 次々とその毒牙にかけてきた。
「可愛いよね、咲夜ちゃん」
「咲夜タン、ハァハァ……」
「本当に──可愛いな」
 増田が舌なめずりをする。
 咲夜こそは最後の一人にふさわしい。
 だから──


 標  的  に  決  定  だ。


 力強く拳を握り締める。
 最後のターゲットと増田の攻防が──いま始まる。



        *



 その日の夜、増田は『断罪天使』にアクセスした。キーボードを打つ手ももどかしく、音霧咲夜の脅迫ネタをリクエストする。
「楽しみだなぁ」
 顔がにやけるのを抑えきれない。
 咲夜は、今まで彼がモノにしてきた相手とは違う。本物のアイドルなのだ。
 紅の髪の少女が、自分の肉体の下で喘いでいるところを想像すると、それだけで射精していまいそうになる。
 そのとき、パソコンから軽快な電子音が鳴り響いた。
 増田宛てに、一通のメールが届いたのだ。
 差出人は──『セラフィム』とある。
「あれ? 『断罪天使』の管理人じゃないか……」
 増田は訝しげにつぶやいた。
 ボタンをクリックし、メールを開く。
「これは──」
 断罪天使の、隠しページのアドレスが記載されていた。
 アドレスを打ち込み、新たなページを開く。
 断罪天使のチャットモードが始まった。
『チャットで話すのは初めてですわね。私がセラフィムですわ』
 管理人……セラフィムからのメッセージが画面上に現れた。
『初めまして、増田です』
 増田もメッセージを返す。
『脅迫ネタの利用サービスは全部で六回。これが最後のサービスになります』
 と、セラフィム。
『今までの増田さんの体験談には、とても楽しませていただきましたわ』
 管理人の口調は女性のものだった。
(セラフィムって女なのかな?)
 増田の中に疑問が込み上げる。
 ただ、ここはネットの世界だ。男が女の振りをしていることも十分ありうる。判断は不能だった。
 と、
『もしあなたさえよければ、断罪天使の正会員になりませんか』
 ふたたびセラフィムからのメッセージが表示される。
『正会員?』
 なんのことだろう、と増田は首をひねった。
『今のあなたは、言ってみれば仮の会員なのですわ。テスト期間と言い換えてもいいでしょう。
 あなたが六つの脅迫ネタをどのように使うのか、どのように使いこなすのか……それを私のほうで見させていただきました』
 セラフィムが語る。楽しげな調子で。
『テストの結果は、私を十分に満足させてくれるものでした。だから誘うのです。正会員という地位に』
『正会員っていうのは何?』
『断罪天使の正式なメンバーですわ。当サイトのあらゆるサービスを好きなときに、好きなだけ受けることができます。もちろん、そのメンバーになれるのは、私が厳選した──本物の精鋭だけですけどね』
 セラフィムの言う『精鋭』というものが、どのような能力、素質を指しているのかは分からない。だが増田はどうやら彼女のお眼鏡にかなったらしい。
 あらゆるサービスを好きなときに、好きなだけ受けられる──
 当然、そのサービスの中には、彼が今使っている脅迫ネタの提供も含まれるだろう。
 増田は、ごくり、と画面の前でつばを飲み込んだ。
『最後の脅迫ネタを使い終えた後に、もう一度聞きますわ。だからそれまで……考えておいてくださいな』
「このサイトって……一体なんなの?」
 増田がつぶやいた。
 チャットで同じ問いを打ち込む。
『このサイトは、私の遊び場です』
「遊び場……」
『私はただ、純粋に好奇心を満たしたいだけ』
 情報とは力だ。
 そして脅迫ネタとは、他人を自由に出来る力。その圧倒的な力を手にしたとき、人はいかなる行動を取るのか。
 増田が選ばれたのは、彼が「力なき者」だからだ。
 他人を圧する『力』を得て、彼は精神的に強くなった。
 小心者から、本物の悪党へと階段を上がっていった。
 ──それが管理人の意図なのだという。
『何者なの、君は?』
『私は花凛(かりん)』
 セラフィムが初めて、己の名を名乗る。
『たとえ総理大臣の個人情報だろうと、私にかかれば丸裸ですわ』
『君は善人なの? それとも悪人?』
 増田がさらに質問を重ねる。
 チャットから受ける花凛のイメージは、なんというか……無邪気な少女のようだ。だが彼女は、何人もの脅迫ネタを探り出し、増田に提供してきた。


 善なのか、悪なのか。


 この少女──無論、本当に少女なのかどうかは分からないが──の心にあるのは、光なのか、闇なのか。
『随分と観念的な質問ですわね』
 と、花凛が返信する。
『善悪の観念に興味がありませんわ。私はただ、私が気に入った人間に力を貸すだけですもの。あるときは極悪非道の老人犯罪者に。あるときは愛と正義に燃える美少女探偵に。
 そして今は──あなたにね』
「…………」
 増田はただ画面を凝視する。凝視し続けている。
 彼女の言葉を最後に──短い、だが濃密なチャットは終了した。
「ふう」
 増田はチャットモードを終えて熱いため息をついた。
 脅迫ネタの利用サービスを回数制限無しで利用できる──
 それはあらゆる人間の弱点を握り、攻撃できるということだ。ただのデブオタだった彼からすれば、信じられないほど大きな力を手にすることになる。
 それだけの力があれば、美咲のことも……
 増田は一人の女性に思いを馳せた。
 近藤美咲(こんどう・みさき)。
 大学のクラスメートであり、彼にとって初恋の、そして初体験の相手でもあった。
 すでに美咲への脅迫ネタは失っている。彼女との交渉の中で、あっさりと気圧され、ネタそのものを消去されてしまった。
 そして脅迫ネタの利用サービスそのものも、今回で使い切ってしまった。
 無論、断罪天使の正会員になれば、話は別だ。新たな脅迫ネタを取り寄せて、ふたたび彼女を脅すことができる。
 それまで待つか。いや──
 彼に天啓が閃いた。
「なんだ、まだ手はあるじゃないか」
 ニヤリ、とほくそ笑む。
 自信たっぷりに増田は立ち上がった。





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