第2回



        *


「いらっしゃいませー」
 ウェイトレス姿の朋美が明るい声で出迎えた。彼女は一週間前から都内の喫茶店でアルバイトをしている。
 ショートカットにした綺麗な黒髪は、あどけない童顔によく似合っていた。キラキラとした瞳や林檎色の頬が純朴そうな印象を与える。
 サラリーマンらしき二人組みがカウンターに並んで腰掛けた。
 午後一時前──ちょうど昼食の混雑が終わりはじめる時間帯になると、計ったように来訪する客だった。
 二人は必ずそろってカウンターに座り、なにかと朋美に話しかけてくる。
「相変わらずかわいいねー」
「ありがとうございます」
 可愛い可愛いを連呼する男に、朋美はにっこりと微笑んだ。正面切って容姿を褒められるのは照れくさいのだが、悪い気はしなかった。
「どう、今度僕と一緒に食事でも? この間オープンした店がなかなか評判よくてさ、一度朋美ちゃんと一緒に行ってみたいなって」
「あの、あたしは……」
 朋美はおろおろと口ごもった。
 すかさずもう一人の男が不快げに顔をしかめる。
「おい、なに勝手に口説いてるんだよ。朋美ちゃんには、俺が先に目ぇつけてたんだぞ」
「何言ってるのさ、僕だよ」
「俺だ」
「僕だ」
「俺」
「僕」
 だんだんと小学生のケンカじみてくる。二人組の男は正面からにらみあい、視線の火花を飛ばした。
「人の恋路を邪魔すんじゃねえ」
「君こそ僕の獲物に手を出さないでくれる」
「……今、獲物とか言わなかったか」
「い、いや、それは……」
「二人とも何の話ですか」
 朋美がキョトンと首をかしげた。
 男たちが何に怒っているのかよく分からなかった。これだけあからさまなアプローチをかけられていても、彼女にはピンとこない。
 性格が天然系ということもあるが、何よりも誠の存在が大きかった。純情な彼女には、誠以外の男など目にも入らなかった。
 そんな朋美の気持ちを知ってか知らずか、二人組のうちのひとりが質問を投げかける。
「朋美ちゃんってさ、彼氏いるの?」
「え? えっと……」
 朋美はたちまち頬を赤く染めた。
 郷里で頑張っている誠の姿を思い浮かべる。
 優しくて誠実な人柄は、朋美にとって世界一素敵な男性だ。思い浮かべるだけで胸がキュンと締まるようだった。
「はい、その……います」
 恥ずかしさに口ごもりながらも、そう告げる。
 二人の青年の顔にたちまち落胆の色が刻まれた。
 この世の終わりのような顔で、呆然とうめく。
「え、いるの……」
「そんなあ……」
「遠距離なので、あんまり会えないんですけどね、えへへ」
 朋美が寂しげな笑みをこぼした。
「遠距離ですとっ!?」
 その言葉を聞いたとたん、二人の顔に生気が戻った。
「それなら突き崩すチャンスはあるよね」
「おおおお、ノープロブレムっ」
 熱血口調で叫ぶ。
「……何の話です?」
 二人が自分に惚れていることすら気づいていない朋美は、会話の内容が理解できず、可愛らしく首をかしげた。
 彼女は、別のことで頭がいっぱいだった。
 明日、誠が朋美に会うために上京してくるのだ。
(ああ、早く誠くんと遭いたいな……)
 胸を熱くさせて、天井を見上げる。
 今週末には、誠が上京する予定になっていた。土日の二日間だけだが、久しぶりに会えることが嬉しくてたまらない。
 ふう、とため息をついた朋美の傍では、二人組が熱血口調のまま、あいかわらず彼女への思いを叫んでいた。
 報われることのない思いを。


        *


 久しぶりに会う朋美は相変わらず美しかった。
 ──いや、今まで以上に美しかった。
「朋美ちゃん、なんか綺麗になったみたいだ」
 誠がドギマギとした態度で告げる。
 心臓が高まり、胸が痛いほどだった。
 朋美に会うために、誠は土日を利用して上京した。往復で何万円もかかる交通費は大学生にとって痛い出費だが、彼女に会うためならどうということもない。
 はるばる四時間以上もかけて東京駅まで出て、待ち合わせ場所で朋美と出会った。
 キュートな童顔は、幸せそうに満面の笑みをたたえている。ショートヘアにした黒髪が陽光を反射してきらきらと輝いている。
 久しぶりに目にする幼げな美貌は、誠の目に眩しすぎた。
 首から下に目を向けると、メリハリのあるプロポーションが視線を釘付けにする。
 また胸が大きくなったのだろうか。胸元を勢いよく盛り上げるバストラインや美しくくびれた腰周りは大人の女の魅力を備えていた。
「本当に……」


 綺麗だ。


 感動すら覚える美しさだった。
 東京に来て垢抜けた感じだった。元から備えていた『素材』としての美しさに磨きがかかったように思える。
「えへへ、そうかな」
 朋美は照れたように頬を染めた。
 垢抜けたとはいえ、人懐っこい笑顔は元のままだ。
「そんなに綺麗だと男が放っておかないよ。まさか浮気してないよね?」
 誠が、なかば冗談、なかば本気の口調でたずねる。我知らず嫉妬心が持ち上がっていた。
「浮気? やだなー、疑ってるの」
 朋美があっけらかんと笑った。
「だってさ……」
「してないよ、浮気なんて」
 朋美がにっこりと告げた。
 あたしは誠君ひとすじだもん、と恥ずかしそうに付け加える。
「梨奈さん……バイトの先輩にお化粧の仕方とは色々教わったの。すっごく綺麗な人なんだよ」
 目をキラキラとさせて語る。
 朋美は今、喫茶店でウェイトレスのアルバイトをしているらしい。梨奈という先輩がいろいろと面倒を見てくれて、楽しいのだという。
 こういうところは変わってないな、と誠は心の中でつぶやいた。
 純粋で、可憐で。
 誠だけのタカラモノだった。
 手をつなぎ、ゆっくりと通りを歩く。
 気がつくと、周囲にはいかがわしい建物が増えていた。
 半ば無意識、半ば意図して、繁華街を進んでいるうちに、いつしかラブホテル街へと足を踏み入れていたのだ。
「やだ、あたし、こういうところはちょっと」
 朋美が身をすくませる。
 二人の前には毒々しいネオンの看板で飾り立てられたラブホテルが鎮座していた。
 どくん、と心音が高鳴った。


 朋美と一緒に、ホテルに入ってみたい──


 初体験への思いが急速に高まる。
「ね、ねえ、朋美ちゃん……」
 かすれた声でつぶやき、恋人の肩に手を置いた。
 はじかれたように、朋美が後ずさる。
「あたし、こういうところでは嫌」
「朋美ちゃん……」
「誠くんのことは好きだよ。でもあたし、初めてなんだから」
「……僕だって初めてだよ」
「最初は、こういう場所では嫌なの」
 頑として首を縦に振らない。
「ごめん」
 誠は素直に謝った。
 二人にとっての初めては、もっと素敵な場所で済ませたい。欲望だけでなく、気持ちも籠もったシチュエーションで済ませたい。
「あたしのほうこそごめんね」
 朋美がすまなさそうに頭を下げた。
 誠は不意に、涙ぐみそうになった。
 彼女はなにひとつ悪くない。
 身勝手な欲望を押し付けようとしたのは、僕のほうなのに。
 愛しい思いが込み上げ、朋美の肩を抱いた。
「……行こうか」
 二人は静かに、通りを後にする。



 このとき初体験を済ませていれば──
 朋美の運命は変わっていたかもしれない。
 だが過ぎ去った時は戻らず、残酷に運命の歯車を刻み続ける。


        *


 男が襲ってきたのは、アルバイトを終えて帰宅する途中のことだった。
「ねえ、朋美ちゃん。俺の気持ち分かってるんだろ?」
 いつも二人組でやってくるサラリーマンの内のひとりだった。飲み屋帰りらしく顔が赤い。
「うっ……」
 おまけに吐く息が酒臭くて、朋美は思わず眉を寄せた。
 すでに時刻は七時を回っている。日は落ち、周囲を照らすのは薄暗い街灯だけだ。
 人気のない寂れた路地で、男と二人きりで向かい合う。酔っ払った調子で、彼が絡んできた。
「あの、あたし……」
 恐怖感が込み上げてきて、上手く言葉が出てこない。
 立ち尽くす朋美を見て調子に乗ったのか、男がさらに近づいてきた。二本の腕が左右から伸びてくる。
 体がすくんで避けることができなかった。
「付き合ってくれよ。田舎の彼氏なんか俺が忘れさせてやるからさ」
「きゃっ!」
 強引に抱きすくめられ、男の胸板に飛び込む格好となった。
 背筋に嫌悪感が駆け抜けた。
 誠以外の男に抱きしめられている……
 気持ち悪くて吐きそうだった。
「いやっ、やめてください」
 朋美は必死で両手をばたつかせる。
 高校時代は互いに内気で、最後の一線を越えることはなかった。
 だが誠のために──
 誠のためだけに取ってある、大切なバージンだった。


 こんな男に奪われるわけにはいかない。


「お、おいおい、なにも処女ってわけじゃあるまいし……」
 男がムッと眉をひそめて告げた。
「せめて一回だけでも、さ。ホテルまで付き合ってくれよ」
 指を一本立てて、朋美の眼前で何度も振った。彼女のことを気軽に援助交際に応じる女子高生かなにかと勘違いしているのだろうか。
 酒臭い息を吹きかけ、露骨に朋美のカラダを求めてくる。朋美は言葉を失い、うつむいた。
「…………」
「可愛い顔して、彼氏ととっくに経験済みなんだろ、え?」
「…………」
「え、マジで処女なの」
 その態度で悟ったのだろう、男は驚いた顔でうめく。
 朋美のほうは恥ずかしくてたまらなかった。
「お願いだから、もうやめてください」
 顔を上げて、凛とした声で叫んだ。気迫に押されたのか、男はたじたじと後ずさった。
 と、
「何をやっているんです」
 店の向こうから背の高いシルエットが現れる。
「店長……!」
 朋美の顔が喜びに輝いた。
 まるで姫君を助けに来たナイトのように、絶妙のタイミングだった。
「困りますねぇ、うちの看板娘に手を出そうだなんて」
 丁寧な、しかし強い意志を込めて北野が言い放つ。
「……すみません……」
 男は消え入りそうな声でつぶやき、そのまま夜の闇へと消えていった。
「店長……」
 朋美は喉を震わせ、うめいた。
「私用で店を離れたら、ちょうど朋美さんが襲われているところだったのでね。いや、何事もなくてよかった」
 全身の力が抜けていく。
 その場にへたり込むと、顔を覆って嗚咽した。
 涙が止まらなかった。
 北野は、朋美の側にしゃがみこんで軽く肩を抱く。
 暖かな手のぬくもりが心地よかった。


        *


 店はすでに閉店の時間だった。店の中に戻ると、北野が温かいコーヒーを勧めてくれた。
 朋美はしゃくりあげながら事情を説明する。
 嗚咽まじりに、悲しみのたけをぶちまけた。常連客として親しみを覚えていた男の豹変は、朋美に大きなショックを与えていた。
 北野は何も言わない。
 ただ黙って彼女の言葉を聞いてくれた。優しい眼差しでじっと見つめてくれた。慰めやいたわりの言葉ではなく、ただ見つめてもらうだけで、気持ちがスッと落ち着きを取り戻していく。
 その隣で梨奈が両手を回して、朋美の肩を抱きしめた。
「大変だったわね、朋美ちゃん」
「梨奈……さん……」
「よしよし、お姉さんの胸で泣いていいからね」
 父親のように暖かい店長と、姉のように優しい先輩。まるで家族のようだ、と自分のアルバイト先のことを思う。
「それにしても、朋美ちゃん目当ての客が日に日に増えていくわね」
 梨奈がため息をついた。
 北野が深々とうなずく。
「あいかわらずモテモテですからね、朋美ちゃんは」
「いやだ、そんなことないですよー」
 朋美は慌てて両手を振った。
 店長と先輩から同時に褒められると、どんな態度を取っていいか分からなくなる。
「胸だってこんなに大きいしね」
 梨奈の手が朋美の胸元にいきなり伸びてきた。
 制服の上から両手で思いっきり鷲づかみにする。
「きゃあっ」
 朋美は思わず反射的に悲鳴を上げた。
「あ、柔らかい。男から見たらたまらないでしょうね」
「や、やめてくださぁい」
 弱々しく嘆願する。
 梨奈はますます面白がって、縦割りのメロンのような乳房を揉みはじめた。


 ぐにゅっ、ぐにゅっ。


 量感のある双丘が、白い手の中で淫靡に変形していく。
 細い指先が布地を通して、柔らかな乳肉に食い込んでいた。
 強すぎず、弱すぎず。
 同性だけあって梨奈の揉み方は絶妙だった。絶妙の力加減だった。
 しつこく揉みしだかれているうちに、性的に初心な朋美もだんだんと妖しい気分になってくる。
「ほ、本当に……あんっ……やめてぇ」
 恥ずかしくなって朋美は言葉を失ってしまう。
「やめて、って言いながら、随分と嬉しそうじゃない。私にいじめてほしい? もしかして、朋美ちゃんってマゾ気質があるんじゃない?」
 梨奈が悪戯っぽく笑う。
 しばらくの間三人で歓談し、やがて三十分が過ぎたころ、
「私、そろそろ帰るわね」
 梨奈が席を立った。
「あ、おつかされさまですー」
「今日はご苦労様でした」
「ふたりっきりになるけど、店長に襲われないように気をつけてね」
「いやだな、梨奈さんってば」
 朋美がくすりと笑う。
 紳士的な店長が自分を襲うなど想像もつかなかった。




 第三回に続く〜

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